パラオ

大小200の島々からなるパラオ共和国は直行便で4時間、日本から真南に3,200キロ。
 太平洋戦争に敗けるまで、日本の委任統治領として多くの日本人が住んでいました。
 他の領土と同じように、ここでも病院や学校、電力や道路など、内地と同じように物心両面のインフラ整備に心を砕きました。
 我々は当たり前と思いますが、世界は海外領土にお金をかけません。
 現に戦後、日本に替わって統治したアメリカは、建前は兎も角、なんらパラオのための投資をしませんでした。

 1994年独立した時の初代大統領は、日系二世のクニオ・ナカムラさん。国民投票で選ばれた国旗は、青地に黄色の“月章旗”です。背景の色は太平洋の青を、真ん中の円は満月を表しているそうです。
 今でもデンワ(電話)デンキ(電気)センキョ(選挙)ダイジョウブ(大丈夫)などの日本語がそのまま通用し、中にはチチバンド(ブラジャー)などというのもあるそうです。未だにタロー、ジロー、アオキといった日本語風の名前が多いとか。
 言うまでもなく、バングラディシュと並んで“日の丸三兄弟”で、何れも大の親日国ですね。
 今でも、親しくなると「アメリカを追い出して、また日本とやろう」と、真顔で言うお年寄りがいるそうです。
 
 現地の人たちのことを如何に考えていたか、ということを象徴する出来事があります。

 ペリリュー島には本土防衛のための南洋最大級の飛行場があり、米軍はここを何とかしないと日本本土への攻撃が出来ませんでした。
 守る守備隊は中川州男(くにお)隊長以下12,000人でした。
 1944年9月15日、手中にあった制海権と制空権と圧倒的な物量と兵員を背景に、徹底的な空爆、艦砲射撃で丸裸になったペリリュー島に押し寄せました。
 アメリカの海兵隊員は「昼になったらビーチでパーティーしようぜ」という安易な感覚で、4万の兵力を以て上陸を敢行します。
 ところが迎え撃つ守備隊は、敵を水際に寄せ付けてから猛烈な砲撃と小火器で反撃し、50%もの損失を被り、一旦は撤退しました。

 けれども衆寡敵せず、敵が上陸を完了する11月27日までの73日間、良く持ちこたえましたが、守備隊長の中川大佐、師団派遣参謀の村井権治郎少将、飯田義栄中佐が割腹したことを確かめてから、玉砕を報せる「サクラサクラ」の電文を送信したのち、翌朝には残存兵力による敵前突撃をして死闘は終わりました。

 その後も生き残った将兵57人は遊撃戦を続け、山口永(ひさし)少尉以下34人が呼びかけに応じて銃を置いたのは、更に1年8ヶ月後の昭和22年4月21日のことだったということです。

 米軍が押し寄せる直前、陣地や飛行場の建設に働いて親しくなった現地の人たちから、「我々も一緒に戦いたい」と申し入れがあった時、中川隊長は「帝国軍人が貴様等のような土人と一緒に戦えるか!」と一喝して虎の子の船舶を手配し、安全なパラオ本島に退避させjました。
 この“裏切り”に悲憤慷慨しながら船を出した時、隊長以下日本兵全員が浜に飛び出して来て、日本の歌を歌いながら「達者でくらせよ〜」と見送りました。
 あの“一喝”はみんなを救うための方便だったのです。
 
 戦闘が終わって帰島した住民は、至る所に散乱している日本兵の遺体を収容し、丁寧に埋葬したということです。

 両陛下は来年、念願かなってこの島を慰霊訪問されるとか。
 昭和天皇はペリュー島の戦闘中、毎朝侍従に「ペリリュー島はどうか」とお尋ねになったそうですから、その思いは今の陛下にも伝わっているのではないでしょうか。
 
(写真は、スリランカのゴールデンビーチでパラオではありませんが、ま、海はつながってるということで)

d0170960_8244146.jpg


by oantaka | 2014-09-22 08:18 | さざえのつぶやき
line

日が山の端にかかる残り少ない時間。思い浮かんだあれこれの独り言です。


by pantaka
line
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31