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涅槃会

 35歳で悟りを開いてブッダとなり、一ヶ所に住むことなく、村外れのお堂や樹の下に寝泊まりし、王侯貴族や最下層の遊女や農民に至るあらゆる人たちに、聞き手に一番分かりやすい例え話で法を説き続け、80歳になって入滅間近になった時、「アーナンだよ。最後の旅に出よう。」と長年の侍者アーナンだ尊者に仰せになり、北の方角、生まれ故郷カピラバストゥ目指して最後の旅にお出になりました。途中クシナガルという寒村まで来た時、「アーナンだよ。私は横になりたい。敷き物を、二本並んだサーラの樹の間に敷いて欲しい。」とお申し付けになって、頭を北にお顔を西に向けて静かに横たわりました。
 急を聞いて駆けつけた村人やお弟子、インドの神々などに「私がこの世にいなくなっても、今まで説いてきた教えがすべてだから、怠らず勤めるように。」と最後の教えをお説きになり、静かに入滅されました。
 それは2,500年前 旧暦2月15日、満月の夜半のことでした。
 1,500年後の京都北の郊外、栂尾の高山寺に明恵上人という方が現れます。
 奈良東大寺の華厳学を学び、真言学にも精通する当代切っての名僧と謳われました。
 後鳥羽上皇などの信任厚く、貴族たちの良い相談相手になりましたが、何より戒律を重んじ座禅などの修行を重視し、権力に近づくことはありませんでました。
 明恵上人はまた、お釈迦さまを慕うこと、幼な子が母親を慕うようであったといわれます。
 
 上人は綿密な計画を立て、天竺(インド)への渡航を企てましたが2回とも叶わず、明石の海に足を浸し「この海が天竺まで続いているのか。」と、さめざめと涙を流し、小石を拾って持ち帰り、お釈迦さまの形見として生涯これを手許で供養したと伝えられます。
 法要『涅槃会』は、明恵上人が音曲をつけ、建保3(1215)年2月15日に高山寺で初演されました。和文あり漢文ありの詩に節付けしたこの曲は、浄瑠璃などの源流になったといわれますが、お釈迦さまへの思慕が切々と聞くものの胸に響き、今日まで連綿と伝えられています。
 
 有名な言語学者金田一春彦先生は智山派用の涅槃会の次第に一文を寄せ「この一連の声明は、その前夜に唱えられる名曲佛遺教経とともに、はなはだ貴重な文化財である。第一にこれらは、耳に聞いても、美しい音楽的なひびきを持っている。講式の荘厳・秀麗な趣、枯朴な味わい、舎利和讃のきめの細かなやさしい情趣、佛遺教経の心に訴える哀婉な情趣、とりどりに結構である。が、それにもまして、古代・中世日本の音楽が今日に生きている姿として、我々を驚喜させる。」…「ところで、こういう素晴らしい曲を紹介する時は、こういう古式豊かな曲も今や影が薄くなって、廃滅に帰そうとしている云々と述べるのが常であり、智山の声明諸曲はそういう運命にあるものとばかり思っていた。ところが昨年2月15日、智積院で行われた法会に参拝する機を得て驚いた。まだうら若い僧侶の方が、朗々ときわめて企画正しく唱えられたではないか。この一派の方々の、伝統を尊重しようとする気持ちが並々でなかったことを想いやって、思わず襟を正したことであった。」と、こそばゆいほどに絶賛しています。

 写真は今年、館山市沼の大寺、總持院様での法要の模様です。
 音楽的な出来栄えは智積院のようには行きませんが、20人余りのお坊さんと尼僧さんが役割を分担して、お勤めしました。
 
 写真は今年、館山市沼の大寺、總持院様での法要の模様です。音楽的な出来栄えは智積院のようには行きませんが、二十人余りのお坊さんと尼僧さんが役割を分担して、お勤めしました。
 毎年の恒例行事で、もちろん非公開ではありませんので、興味をお持ちでしたら總持院さまにお問い合わせになると宜しいと思います。
 今年は偶々お帰りになっていたご高齢の能化様が、最後までお勤めになりました。

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by oantaka | 2015-05-06 21:01 | さざえのつぶやき
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日が山の端にかかる残り少ない時間。思い浮かんだあれこれの独り言です。


by pantaka
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